パートナー通信 No.47
子どもたちの作文と子どもの権利条約
~子どもたちとお母さんたちと
飯塚さんが作り出していること~
石橋 峯生(世話人)
9月の世話人会で、「子どもたちの作文と、それを支える母親たちや飯塚先生の取り組みはすごいってわかるけれど、それがどうして『子どもの権利条約』なのか、その関係が分からない」という声が寄せられていると報告された。そのあたりを説明(明らかに)する必要がある。それは、同じ時(同時代)を一緒に教師であった、私の仕事になった。
ぐんま子どもの人権宣言合唱団の子どもたちが、子どもの権利をうたいます。
"学校のために僕らがいるんじゃない
僕らのために学校はあるはず。"
うたえる人は歌ってみてください。うたえない人は、2度読みかえしてみてください。
「その通りだ。」と、沁み沁み思いますよね。ところが日本の学校は逆転しています。
現在の学校は、教えると直ぐテストをします。テストで優劣を決めます。中学は高校の、高校は大学の入試のためのテストを、大学は就職のためのテストをと、「人材育成」のための教育を押し進めます。・・・これが、日本の教育の国策です。
子どもの権利条約は、子どもを権利の主体と考えます。「子どもには学ぶ権利がある。理解できるように教えてもらう権利=賢くなる権利がある。大人には、子どもを賢く育てる義務がある。」・・・これが「子どもの権利条約」の根幹です。
子どもたちとお母さんたちと飯塚さんの作り出していることは、この逆転の逆転を見事にやってのけます。国策の中にある子どもたちを、権利条約の世界に蘇らせるのです。
2011年の夏、それは行われました。世話人の小林美代子さんが参加して、感動的な報告をしています。その報告と飯塚さんの報告と、子どもたちの作文で、子どもたちの逆転劇を考えてみましょう。
小林さんはつぎのように言っています・・・
旧「パン工房ハイジ」のフロアーは飯塚祥則先生と30人近い子どもたちの熱気で充ち充ちていました。
午前10時過ぎ、飯塚さんと子どもたちは出会います。子どもたちも初対面です。まず、お互いに学校名や学年、名前を紹介し合った後に、自分の好きなことや、今はまっていることなども出し合い、いよいよ始まります。
先生は子どもたちの心を軽くほぐしながら話しを進めます。
やがて一人一人の顔の表情がにこやかになり、全身の緊張が解け始めた頃『田中の家に犬がくる』を取り出しました。「この本には、みんなと同じ小学生の子の作文がいっぱい書いてあります。これから読んでみるけど、あんまり面白くないから笑っちゃダメです。笑わないでください」などと言いながら「うんこふんじゃった」を読みはじめます。途端に居並ぶ全員の子どもたちは、せきを切ったように爆笑、又爆笑です。一気にその場の空気が弾け飛び、一人一人の子どもたちの回りに漂っていたガードの鎖がプチプチと切れていくのがよくわかります。『田中の家・・・』の作文が次々に紹介され、最後に、前橋市勝山小2年高山さくらちゃんの作文を読みました。もうその頃にはどの子もみんな「作文書いてみたいな」という顔になっています。すかさず飯塚先生は子どもたちに問いかけます。
「みんなも書いてみたいこととか言いたいことってあるかな?ある人は手を挙げてください。」
「ハイ!!ハイ!!ハイ!!」
座ったままの子、中腰の子、立ち上がっちゃう子、会場はざわつきます。・・・お父さん、お母さんに言いたいこと、お友だちに言いたいこと、先生や、学校に言いたいこと、さらには自分が今、一番はまっていることなども出されました。中でもオレもワタシも・・・と共感が多かったのは学校へのことでした。
「学校の授業が6時間もあることへの超不満!!」
「授業は1時間だけでいい!!」
「教室で座っているのがいやだ!!」
「学校(校舎、建物)があるのがいやだ!!」
かなり過激です。でもみんなの共感があるので、空気は軽やかで、自然体に感じられます。飯塚先生も乗っています。私など内心ニヤニヤしてしまいます。・・・「もっと言って!!学校はみんなのためにあるんだから、子どもたちがいやがるようなところは学校ではないよ。学校の主人公は子どもたちだもんね。」「どういう学校だったらいいのかな?みんなが楽しくって、毎日喜んで行きたくなる学校って?」・・・もっともっと子どもたちの声を聞きたいと思いました。
さてさて、飯塚先生の手元にはA4判の白い紙と鉛筆が用意されています。
「今、みんなが話していたようなこと、作文に書いてみたいと思う人はいるかな。他にも書いてみたいことあったら題を出してみようか。」 ホワイトボードは、子どもたちの書きたいこと(題)でいっぱいになります。
子どもたちは書きはじめます。ほぼ全員がえんぴつを走らせています。しーんとした静寂の中に、何か一筋の張り詰めた緊張感が漂っています。「息を飲むような」と言ったらちょっと大袈裟でしょうか、「壮観」と言えばオーバー過ぎるでしょうか。でもそんな形容をせずにはいられないほど、その場の空気は圧巻でした。・・・
この写真は、子どもたちが書いた作文を持って飯塚先生と話し合っているところです。
バッタのうんこ
あるひ、バッタをつかまえてかった。
おひるに えさをかえようときたらバッタ
がうんこしてた。
夕がたに きりふきしにきたら バッタが
うんこしゃぶってくってた。
おにいちゃんをよんで
「ほら。」
といって ふたりで
「えー。」
といった。
つぎに おかあさんをよんだら おかあさんも
「えー。」
といった。
こんな作文が届いたとき、子どもが持ってきたとき、どんな話しをしているか?・・・飯塚さんは、何も書いていません。小林さんはじっと見ています。・・・大事な瞬間です。子どもの表現(心)をどう受けとめ、飯塚さんの心をどう伝えるかという瞬間です。
多くの先生は、作文で何かを教えようとします。「良く書けました」と誉めたり、「最後、大事なことを書きたしたら?」とか、「ある日バッタをつかまえた」と「虫かごに入れてかった」の2つの文にした方がよくないか?」・・・など、教えたくなるものです。この表現の見事さが子どもの見事さであることがわからないのです。
こんな事を話した世話人会を終えて、遅れて来た飯塚さんにそのことを話すと、飯塚さんは「それは、子どもの表現(心)を否定したことになる」と言いました。その事に多くの人が気がつかない。多くの教師たちも、親たちもです。頭の中では理解してもです。子どもの権利条約の理念がわかりにくいのと同じです。
小林さんは、報告の最後でこんなふうに言っています・・・
この日集まった子どもたちの誰もがみんな、特別に選ばれた子ではなく、飯塚先生とは初対面という子も多い中でのこの展開から、私は、改めて多くのことを学ばせていただきました。子どもたちと飯塚先生は顔を合わせたその瞬間からパチパチと信頼関係の火花が散るのでしょうか。一気に心を開いていく様が手に取るように伝わってくるのです。自分の存在を肯定され、ありのままを受け止めて、気持ちに寄り添ってもらえる実感が心地いいのでしょう。対等で平等な関係性の中で自由、率直に思いの交換ができること。時には温かく励まされ、時に厳しいアドバイスもしてくれる、そんな環境の中ではそこに居るすべての子どもが安心して共感共鳴の渦の中に身を委ねることができるのかも知れません。
夢中で作文を書いている子どもたちの全身から至福のエールが発せられているように感じました。すべての子どもたちにこんな出会いをさせてやりたいと願うと同時に、私たち大人は、子どもたちが本当に求めている環境作りのために力を出し合わなければと思いました。子どもたちの発するサインやシグナル、心の叫びに謙虚に耳を傾けたいと思います。