パートナー通信 No.57
「総会」第二部の講演と交流は、今年度も「ぐんま教育文化フォーラム」との共同企画です。
昨年3月、「フォーラム」のスタッフが福島県を訪問し、今回お出でいただく松本・鈴木両先生が勤めている二俣高校も訪れています。「フォーラム」の会報『育ちと学び』No.16にその時のお二人の話も報告されていますので、了解を得て、その一部をここに転載させていただきました。
川俣高等学校を訪問して
3月28日の午後、福島県立川俣高校を訪ね、二人の先生からお話を聞きました。川俣高校は福島市の隣、川俣町にある普通科2クラスと機械科1クラスずつのこじんまりした高校。二年たってやっと全ての敷地内の除染が終ったということでしたが、耐震補強工事の最中でした。
先生たちも被災者
松本佳充先生(数学)は、震災発生時は浪江町に家族6人で居住し(原発から7.5km)県立双葉高等学校(原発から3.5km)に勤務していました。3月11日の14時46分、ちょうどテニスコート(原発から2.8km)で部活動中に大地震発生。生徒とともに避難しました。自宅に帰ってみると家はメチャメチャ、停電・断水・通信不能。寒い中、車中泊。原発で何が起きているのか、その日は全く知らないまま、翌12日、浪江町が避難命令を出したので、何も持たずに車1台で避難しました。誰もが2・3日で帰れると思っていたと言います。避難先を転々として「今は母(87歳)と妻の3人で二本松の妻の実家にお世話になっています。家族全員が住める家もない。浪江町の家には戻りたくても戻れない。先の見えない大きな不安を抱えたまま、現在まで何も解決していない。」と語ってくれました。同じように、多数の生徒・職員の自宅も津波と原発被害に遭いました。
私の幸せは一瞬にして奪われた・・・
原発に翻弄される被災生徒達
生徒は普段明るくふるまっていますが、心の傷は深いと、松本先生は生徒の文章を紹介して下さいました。
「原発事故により、この日から避難生活が始まった。最初のころは本当に辛く苦しくて毎日が嫌だった。通える学校があり、帰れる家がある。それまで当り前に過ごしていた生活がどれだけ幸せだったのか、思い知らされた。自分だけ辛いわけではない、みんな辛いんだとわかっていた。」
「3月11日に起きた東日本大震災そして原発事故。私の幸せは一瞬 にして奪われた。家に帰れない。家族に会えない。お風呂に入れない。食べ物もままならない。そんな生活が一週間続いた。ようやく家族に会えたのは、震災から6日後の3月17日だった。会った瞬間、涙が止まらなかった。」
「そして事故から7ヶ月が過ぎた時、車での一時帰宅があった。私はこの時やっと、自分の気持ちに諦めがついた。『もう故郷の家には住めない。帰れない』と。だから、これからは前向きに笑顔で頑張ろうと決めた。しかし、それは無理だった。友達と遊んでいても、学校にいても、どこか辛くて、授業で先生が原発・放射能という言葉を口にするだけで涙あふれそうになることもあった。」
原発30km圏内には高校が8校ありましたが、約55パーセントの生徒がサテライト校へ、他は県内外の高校へ転校しました。サテライト校は、協力校の特別教室や同窓会館、体育館を借りて仕切り、教室として利用していますが、不便な勉学を強いられ、部活動や諸行事もままなりません。先生達もサテライト授業の掛け持ちで長距離通勤が多くお疲れです。
一番の被害は
「人のつながりが分断されること」
鈴木裕子先生(家庭科)は言います。「今、復興だということで、原発や放射能のことを言えない雰囲気があります。震災で多くの家族が別れ別れになりましたが、放射能のことでは、職場でも意見が分かれています。それまでは子どもたちのためにと言って同じ方向を向いてやってきた人でも、一人は放射線の被害が心配、一人は気にする方が心配と言って分かれちゃう。家族や夫婦の間でも意見が違い、離婚が増えています。生産者と消費者も分断されちゃって…ほんとはお互い被害者なんだからと思うのですが。震災で人のつながりが分断されることが一番大きな被害です。」
高校生は、アンケートをとると「原発は無くなってほしい」と書いているのですが、「放射能や原発について知りたいことありますか」と聞くと「ない」「ない」「ない」。どうしてと突っ込んできくと「不安になるからこれ以上知りたくない」と。「やっぱり心配なのですね。日常しゃべるということはないのでしょうが、結婚できるだろうかとか、子どもちゃんと産めるだろうかと心配してますし、食べ物大丈夫なのかなあと言っています。」
未来へのパズル
~一人ひとりが大切なpeace~
震災後初の文化祭「かえで祭」
私達の訪問の目的の一つは、川俣高校が文化祭で今回の大震災を取り上げたと聞いたからです。文化祭の話題になると、鈴木先生の顔が明るくなり臨場感のある語りに惹き込まれました。 部屋の壁に貼ってあったポスター部屋の壁に貼ってあるポスターは地球をまんなかに明るいトーンのデザイン、テーマのpeaceには平和、一人ひとり(piece)という意味もこめられています。3年に一度の開催ですから、大震災後初めてということで、大震災を乗り越えた生徒達の未来への想いを感じました。
「かえで祭」は昨年10月27日(土)~28日(日)。生徒達は、震災当時のことを、川俣町の災害対策本部や消防団にインタビューに行ったり、山木屋(町名)地区の仮設住宅に住んでいる人達に聞きに行ったりして、開催式でプレゼンテーションしました。体育館にはポスターの絵を折鶴で貼って大きな壁画にしました。必要な8万羽の鶴は生徒だけでは折りきれないので、仮設のおばあちゃんや町長さんや町役場の人、店街の人、ありとあらゆる地域の人にお願いして折ってもらいました。家庭クラブでは、仮設の人達はいろんなことをやってもらっているけれど、逆におばあちゃん達に教えてもらう方がいいということで、折り紙細工のくす玉を教えてもらいました。60枚の折り紙を使って手の込んだ珍しいくす玉です。それを食堂などに飾って評判になりました。「そしたら仮設でも話題になっておばあちゃん達が折り紙を一生懸命やるようになって、楽しいねと元気になり、折り紙を折る会ができちゃって、とうとうテレビのニュースに出ましたよ。」
「飯舘の牛丼」再現物語…
文化祭で「ふるさとの料理」をつくる
鈴木先生は、家庭クラブとボランティア同好会の生徒たちが「クレープ屋さんやりたい」と言うので、「震災後なんだから、そんなのんきなこと言ってないで」と考えさせました。そして「地域のお料理」ということになり、全校生徒に地元のおいしいものアンケートをとった結果、次の4つになりました。川俣シャモ、なみえやきそば、飯舘牛の牛丼、山木屋のメロンパン。生徒はそれぞれ夏休み中に、関係の所に出かけて調査し教えてもらいました。それぞれにおもしろいエピソードと地域の人との関係が生まれました。その一端を。
飯舘牛が手に入るはずもなく悩んでいた牛丼班、インターネットで飯舘牛を連れて千葉に移転した牧場主のこと、その牛肉をネット販売している会社があることを知り、思い切って手紙を書きました。
「『飯舘村の地産地消の学校給食』、中でも人気のあった『飯舘の牛の牛丼』を再現したい。自分達で食べるだけでなく、3年に1度の文化祭で来場者の方に味わっていただくことで、「ふるさとの味」を伝えていきたい。しかし震災の影響で『飯舘の牛』はどこを捜しても入手できない状況・・・そんな中、『飯舘の牛』を守るために千葉に移転してまで飼育をつづけている『小林牧場』小林さんのことを知り、小林さんを応援する会社の『牛一頭買いプロジェクト』に最後の望みをかけて手紙を書きました。『飯舘の牛の牛丼』の具材に『小林牧場』の『飯舘の牛』をぜひわけてほしいです。」
高校生の熱意が小林さんや会社の社長さんに通じたのはもちろんです。「欲しいんですか、買ってくれるんですか」「欲しいんです」というやり取りの後、10キロほどいただきました。お米や野菜は支援で全国からもらった材料で、飯舘の学校給食の栄養士さん達も朝早くから応援に来てくれて作りました。避難している飯舘村の人、仮設住宅の人や町の人が食べに来て「なつかしい」「おいしい」と好評。小林さんも来てくれて生徒達の取り組みに対して涙を流して喜んで下さいました。
「文化祭を通して、生徒達はすごい達成感を持ちました。また"助けて"と助けを求めると必ず助けてくれる、応援してくれる人もいるということがわかったと言っています。」
答えのない問いを考えていく授業を
最後に鈴木先生が決意を語りました。「私はこれまで答えのある授業しかしてこなかった、答えがないことに対して答えを見つけていく学習をしてこなかったと反省しています。疑問を持って、考えさせる。意見の違う人とも話し合って一致点を見出していく、そういう授業のやり方に変えていきたいと思っています。」…これは日本の学校教育の共通の課題ではないでしょうか。
(瀧口典子)
飯舘村の今
川俣高校での取材を終えた私たちは、斉藤毅さんの案内で飯舘村に向かいました。県道12号線を北東に走ると間もなく峠にさしかかります。周囲の山肌は褐色の雑木に覆われ、少しだけ芽吹きの気配が感じられます。「自然豊かな」と表現される東北の山地を走っているわけですが、違和感は否めません。群馬ではやがて田の畔はタンポポやレンゲで華やぎ、セリを摘む人の姿も見られる時期ですが、飯舘では田んぼが葦原になっています。春の準備をする人の姿はありません。沿道の人家も人が暮す気配がありません。車を走らせながら、ずっと昔から耕してきた田んぼを、生まれ育った故郷を捨てて避難していった村人の気持ちを想像していました。
私たちは山沿いの相馬農業高校飯舘分校跡地を訪れました。もちろん、迎える人はありません。無人の敷地内に放射線量測定器が設置され、3.8μ㏜を表示していました。テニスコートもフェンスも枯れた雑草で覆われています。2年前には高校生の歓声に満ちていただろうに。今は桜のつぼみが開花を待つのみ。北向き斜面の裾にある校舎はあっと言う間に陽が陰り、気温もが下がってきました。
(倉林順一)