パートナー通信 No.64

再び道路を掘り返してはならない 代表 大 浦 暁 生

 2016年、あけましておめでとうございます。今年も子どもたちが健康で平和に暮らしながら成長していけるよう、心から祈りつつ微力を尽くしたいと思います。

 私は1931年(昭和6年)生まれで、敗戦のとき14歳でしたから、アジア・太平洋戦争の荒波をもろに受けながら、子ども時代を過ごしました。場所は大阪市南部、大和川を隔てて堺市と接する地で、近くには大阪商大、現在の大阪市立大学がありました。私が4歳のとき大阪府立盲学校の校長だった父が亡くなり、母は私と女の子3人(私の姉たち)をかかえて、古い農村に新しい勤め人も交じるこの大阪市郊外に移住してきたのです。
 もしかりに、敗戦のショックで意識を失った人が、いま70年あまりを経て意識を回復し、このあたりを見回したら、何と言うでしょうか。「この家また家! ビルもある。それにこの自動車の列はどうだ! あの広々した畑、大和川の堤防に並ぶ木々、カブトムシやカミキリムシを採ったクヌギの林などは、みんなどこへ行ってしまったのだろう!」と驚きの声をあげるに違いありません。
 そして逆に、現代の生活に慣れ親しんだ若者が、タイムマシンを使って敗戦直後のこの地に来たら、きっとこう叫ぶでしょう。「こんなに道を狭くしちゃダメだよ! これじゃ車どころか、人ひとり通るのがやっとだ。畑はそこらじゅうにあって麦や野菜を作っているのに、まだそのうえ道まで耕して、なにか作ろうというのか。」
 若者よ、道路を掘り返して作ったこのささやかな畑こそ、一般庶民の必死の命綱だったのです。食料は主食も副食も政府にすべて統制され、上から配給されました。米は玄米のまま配給され、一升瓶に入れて棒で搗く自家精米をしました。量も少なく、1か月分が10日ほどで終わってしまいます。副食もひどく、敗戦の1945年8月にわが家が受けた魚の配給は1回だけ、5人家族にイワシ3匹でした。
 こうした中で、どの家族も自らの生命を守るために、さまざまな方法で力を尽しました。ヤミ米の買出し、物々交換、そして空き地利用の食料生産です。道路は「空き地」の主要なものでした。
 現金収入が扶助料(今の遺族年金)しかないわが家では、母の着物が一枚また一枚とタンスから消えていきましたが、道路も農家と話をつけて畑に接した場所をうまく確保し、いろいろなものを作りました。大麦、小麦、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ、落花生、大豆…。トマト、キュウリ、ナスなどの野菜も作りました。
 農作業は主に母でしたが、私たち子どもも手伝いました。こうした必死の努力でこの時代を生きのびたのですが、これは当時のどの家庭でもやっていたことなのです。舗装道路が少なく砂利道が普通だった当時の状況も幸いでしたが、砂利を取り除く作業には苦労しました。「空き地」は道路だけでなく、たとえば学校のグラウンドなども利用されました。使っていたのは先生方だったのか、それとも近くの住民だったのでしょうか。
 道路やグラウンドの「農園」は多くの生命を救いましたが、道路はやはり人や車の行き交う場として在りたいし、グラウンドも学校教育を担う重要な施設の一つとして存在してほしいと思います。平和な世が続いて、道路やグラウンドを再び掘り返すことがないように、ともに力を合せたいものです。


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