パートナー通信 No.66
高橋清一さんのご逝去を悼む
高橋清一さんのご逝去を悼む
群馬子どもの権利委員会設立のときから世話人会の中心として奮闘された高橋清一さんが、今年5月に逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいた
また一人、同世代の仲間を失ってしまいました。
齢八十代になって、一緒に活動するなかで生きがいと躍動感を持っていたあの頃が思い出されます。
私が、六十年安保闘争のなか、県職労組合で少し派手な活動をして警察に検挙されたとき、高橋さんは県高教組役員だったようです。
群馬子どもの権利委員会が設立され、私が児童相談所で働いているのを知ったらしく、世話人になるよう誘われました。
高橋さんは、運動の進め方が曖昧な時は、とても厳しく指摘してくれました。
教師の体罰問題が発生すると、その学校に乗り込んで対話してくる迫力に、畏れと敬意を持ったものです。
大事な人を失って残念です。 合掌。
河嵜 清松(世話人)
高橋さん 悲しい別れでした。
知らない所で 一人で
この世を 去る?
最後くらい 一緒に居たかった。
群馬子どもの権利委員会 世話人として
子どもたちの生きる 平和な未来を
子どもたちと 現在(イマ)を
一緒に 生きてきたのだから、
仲間たちと 子どもたちに かこまれて
一生を 終りたかった。
それができず 悲しい別れでした。
高橋さんとの出会いは、「子どもの権利条約」批准運動の中だと思います。
それは、「群馬の民主教育を結集しよう」と、幼保・小中学校・高等学校・大学が、市民と「群馬県民教育研究集会」を組織した頃でもありました。
「あかぎしぜん学園」の建設が呼びかけられたり、未来スタジオの建設が進められた頃でもありました。
日本政府が批准を決めたとき、― これは終わりでなく、新しい闘いのスタートだと、「群馬子どもの権利委員会」を組織 ― 呼びかけから運営まで ― 高橋さんは、その中心にいました。
現在、日本で、「子どもの権利条約」の運動は、非常に困難があります。
しかし、日本のすみずみで、
― 子どもがいるかぎり
― 子どもと共に生きる親たちがいるかぎり
この運動(闘い)は続きます、
「子どもの権利条約」が、日本の、群馬の、私たちの日常になるまで。
高橋さんの仕事は終った。
長い間、御苦労さまでした。
― 美しい人生です。―
石橋 峯生(世話人)