パートナー通信 No.68
淺川伯教・巧兄弟に学ぶ 代表 大浦暁生
「せっかく山梨まで来たのだから、どこか一つ寄っていきませんか」
正月8日から石和温泉1泊で開かれた新英語教育研究会関東ブロック集会に、車を相乗りして参加した私たち群馬の4名は、全日程終了後の9日午後をどう過ごすか、ミレーの美術館なども含め話し合いました。しかし、県北西部の北杜市にある「淺川伯教・巧兄弟資料館」に決まるまでに、時間はかかりませんでした。出身地でなければ見られない展示ですし、巧の生涯が文部省検定教科書に載るという事情もあったのです。
カーナビを頼りに北杜市高根町を訪れると、資料館は高根生涯学習センターの建物内にあり、(県でなく)北杜市教育委員会が世話をしています。地元の人たちがいかに兄弟の生き方を人の鑑として尊敬し、生涯にわたって学習すべきものと考えているかがよくわかります。館長は女性で、進んで説明をし質問にも答えてくださいました。
浅川兄弟は2人ともこの地の生まれ。兄の伯教(のりたか)は1884(明治17)年生まれで、師範学校を出て小学校の教師になります。1913(大正2)年、朝鮮の美術に魅せられて現地に渡り、京城で教師をしながら全土を歩いて、李朝白磁を初めとする美術品の研究に傾倒しました。昔の宮殿跡を掘り返して陶片を集めたりもしました。
一方、弟の巧(たくみ)は7歳年下で、農林学校卒業後秋田県の大館営林署に4年ほど勤めましたが、1914(大正3)年、兄を慕って朝鮮に渡り、京城の朝鮮総督府山林課に勤務します。巧は陶磁器ばかりか、たとえば食卓用の膳など朝鮮の生活文化に幅広い関心があり、また、自然の草木や生き物を深く愛する心の持ち主でもありました。
当時の朝鮮は1910(明治43)年日本に併合されて間もない頃で、日本人は支配者として、朝鮮の人びとを侮蔑しその文化を軽視するのが一般的でした。しかし、そうした中で淺川兄弟は同じ人間としてだれとも親しく接し、朝鮮のすぐれた美術や文化を高く評価して、積極的に紹介したのです。2人で力を合わせて、1924(大正13)年、景福宮に「朝鮮民族美術館」を設立し、開館にこぎつけることもしました。
私が注目するのは、同化政策で朝鮮語が禁じられ日本語が強制される中、文化の核心に言語があると巧が信じて、自ら朝鮮語を積極的に学んで使用し、山林課の同僚の現地人たちにも自由に使わせたことです。これは現地人同士の話の中からチョウセンマツの種子には自然な発芽がいいと知り、画期的な「露天埋蔵法」の発見にも繋がるのですが、植民者たちが乱伐したハゲ山を緑に戻すのに、巧は大きな働きをしたのでした。
資料館の展示の特色のひとつは、等身大の人物像や実物大の物品を使って場面を作り、臨場感や理解を高めるジオラマの手法が取り入れられていることでした。
その一つ、当時の朝鮮の一般的な家族団欒の光景として、夫婦が十代後半と見られる女の子とお茶を楽しんでいる情景を見たとき、私の目には、正座したその女の子の可憐な姿が、従軍慰安婦を忘れないためとして最近プサンの日本総領事館前に置かれた少女像と重なって見えました。
「少女たちは、平凡だが幸せなこうした日常の生活から引き離されて、むりやり慰安婦にされていったのだ」
相乗りで前橋への帰途につきながら、私の目には、ジオラマの女の子の姿と総領事館前の少女像が重なって、いつまでも消えることはありませんでした。