パートナー通信 No.68
「子どもをひとりぼっちにしない」ために…
「ひだまり子ども食堂」スタートへ NO.2 今村 井子
はじめに
前回のレポートで、ひだまり子ども食堂を始めるに至った経緯やひだまり子ども食堂に集まる子どもたちや家族、地域の方々の様子について書かせていただいた。
はじめる前もはじめてからも、いろいろな反応があった「ひだまり子ども食堂」だが、何とか半年実施することが出来た。これもひとえに心のこもった手作り料理を毎回作って下さるボランティアのママたち、カンパや食材を提供して下さった地域のみならず全国の皆様のおかげだと思っている。いうなら、市民の力だけで、ここまでたどり着いたということかもしれない。日々成長してる子どもたちの厳しい現状は「待ったなし」の状態であり、それを見過ごせないと思った大人たち自らが動き出し、それが全国300カ所までにも増えた「子ども食堂」プチブームとなったといえるのではないだろうか。
新聞やSNSのメディアにも、今回は助けられた。「新聞を見て~」や、「ひだまり子ども食堂のFBを見て~」といった面識のない方々から連絡がたくさん入り、支援の輪が広がったからだ。
子どもたちが夢を抱き、未来を自由に描ける将来を保障することは社会の責任だ。そしてそれは言わずもがな大人の責任でもあるのだ。「ひだまり子ども食堂」をはじめるにあたり、私自身がその当たり前に気付かされたきっかけにもなったといえるかもしれない。
「子どもたちにとっての安全安心」は、「変化に気づける、風通しの良い地域」からつくられる
13年前、松井田町に来て一番驚いたのが地域の子どもたちの元気な挨拶の声だった。地元でない「よそ者」である私に、通りすがりのどの子も元気な挨拶をしてくれた。都会から来た私はとてもびっくりし「人とのつながりがごく当たり前にあるんだなあ」と、地域の人付き合いの心地よさを感じたのを覚えている。
しかし、大阪池田小事件をきっかけに公立学校での「不審者対策」が加速する中、挨拶運動は様変わりし、この片田舎である松井田町でもその変化の波は押し寄せた。挨拶が印象的な地域だったはずが、息子が小学校に入学する8年前には、挨拶を自分からする子どもは激減していた(というより、ほとんどいなくなった)。余りの変わりようを疑問に思った私は、当時の校長先生に話しに行った。以前、私が印象的だった「子ども自身が自ら進んで挨拶すること」がほとんど聞かれなくなったのは、何か原因があるのでしょうか?と。すると、当時の校長先生は即座に、挨拶について指導が変わったと説明して下さった。それは、「知らない人には自分から挨拶しないように」となったからだろうと話しをされた。不審者に目を付けられないように(余計な接点を作らないように)知っている人には自分から挨拶をしても良いが、知らない人には向こうから挨拶されない限り自分からはしないようにという指導なったと。校長先生は私に、「だから保護者である親から子どもたちに進んで挨拶して欲しい、それなら子どもたちは安心して挨拶を返すことが出来るから」とおっしゃった。その場での私は「そうでしたか、だから子どもたちは挨拶を自分からしなくなったんですね」とだけ応え、挨拶をしなくなった原因が指導が変わったことにあったことに納得したことを伝え、その場を離れた。
しかし、その後何ともいえない「違和感」を覚えた。不審者とは「知らない人」なのか。犯罪の現場では「知らない人」より「知っている人」からの暴力や犯罪の事例も多いことをどう考えるのか、考えれば考えるほど心の中に押さえきれない矛盾が巻き起こった。「人格の完成」を目指し、教育の理想を追い求めるはずの学校教育の中で、子どもたち自身が自分以外の他者とどう関係を築いていくのかがとても軽々しく扱われているようにも感じたからだ。「人間への不信感」を先に教える(植え付ける?)ことは、本当に正しいのか。今、この時期に必要なのか。
確かに、犯罪から子どもが身を守る術を学ぶことは重要だ。しかし、「知らない人には挨拶をしない」ということで、本来、こどもたちの内面に育みたい「信頼」「助け合い」といった人としての温かいエネルギーまでが失われていくことにならないか。二の次にされないか。どこか横に追いやられるようなことになりはしないか。また、子どもたちを育てる地域や大人たちが、他者とどのような関係を作りながら、地域で暮らしていくのかといった心の交流のイロハまでも、挨拶が失われることで、触れずに学ばずに過ごしてしまうような気さえした。
余りにも代償が大きいように感じたのは私だけだろうか。
支える・支えられる 助ける・助けられる
前段が長くなったが、子どもたちの安全安心を考えることは、ただ単に犯罪から遠ざけるための対処療法「不審者対策」では真の解決にならないのではないかということである。
たった一人の人間の人生でも、様々な事情で憎しみをため込んでしまう時期もあるかもしれない、気持ちがくじけてしまうこともあるだろう。ましてそれが子どもであれば、自分ではどうしようもない環境に傷ついているかもしれない。どうしようもない孤独のただ中にいるかもしれない。だとしたら、そういう時こそ、だれもが支えられる、助けられる、または助ける、支える仕組みが必要ではないだろうか。もし子どもたちが「誰かを傷つけてやりたい」と思うまでの絶望をもったとしよう。そしてそれがくい止められるとするならば、それを思うようになるずっと以前に、子どもをあたたかく見守り支える、助け合う関係が地域に根付く事が大事なのではないだろうか。大人の誰もが自由に意見を言い合い、出し合える自由であたたかな、そういう場が地域にあること。その中で、子どもたち自身が自分を安心して表現でき、どこかに居場所を見つけていくのではないだろうか。十人十色の子どもたちが、多様な人間が出会い、互いにぶつかり合い、理解し合い、共に歩む場所があることが、結果的に人を支えるのではないだろうか。
みんなで作り上げる「ひだまり子ども食堂」のおもしろさ
月一回の「ひだまり子ども食堂」だが、毎回ワークショップや読み聞かせ、生演奏などの「お楽しみ」やイベントも盛り込んでいる。お料理も出汁をとることからはじめるなど、スタッフさんの下ごしらえにも力が入っている。月一回の取り組みに、多くの方のあたたかな思いが詰まっており、準備から片付けまで、毎回結構な手間と時間を割いて行っている。
しかし、実行委員の皆さんを見ていると、皆さんにはどこにも義務感や気負い、負担感がない。「嫌々やっている」感がどこにもないのだ。むしろいつも積極的、当日もてんやわんやの大騒ぎだが、いたって楽しそうだ。それはきっと充実した時間をひとり一人が身をもって楽しんでいるからなのではないかと思っている。一人のスタッフさんからこんな感想が寄せられた。「普段、食べられることを当たり前に思っていたけれど、子どもたちの「いただきます」「おいしかった」の声や様子に普段の自分を振りかえり考えさせられた。食べることの有り難みをいつの間にか忘れていた」と。
「ひだまり子ども食堂」が、一方的に誰かを支える場でなく、互いに満たされ支え合う、フラットな場であることが大事ではないかと思っている。
そして、このような主体的な活動が地域で大事に育まれること、増えていくことが地域で暮らす人々にとって何よりのセーフティネットになっていくのではないだろうか。
これからは地域に生きる大人たちひとり一人、全員が、何らかの地域作りに関わっていくことが必要なのだと思う。老若男女はもちろんのこと、障がいを持った人、LGBT、国籍や主義主張も多様で良い。だからこそ、すべての人がどこかで安心でき、前を向き、自分の役割や人生を全うしようと思うのではないだろうか。
そのきっかけとして「ひだまり子ども食堂」がこれからも続いていけるように、小さい取り組みだけれど、大切にしていきたいと思っている。