パートナー通信 No.95

2025年2月1日

目次

原爆投下の是非 子ども会員 今村友紀(高校生)

先日、所属している高校の修学旅行で世界遺産の原爆ドームも敷地内に有する、広島の平和記念公園に訪れた。いろいろと考えることが多くあったので今回はそれを一部著そうと思う。

 私がこの平和記念公園を訪れるのは、初めて家族と広島観光含めて訪れたものを含めて2回目である。広島平和記念資料館を初めて見て戦争当時の凄惨さを実感した時の悶々とした感情や、それまで平面としてしか認識してこなかった原爆ドームを見た時の感動を胸の中に残しながら訪れた今回の旅行であったが、やはり印象的なのは資料館内での来訪者の表情である(展示や被爆者の話を語り継ぐ語り部の方の話ももちろん印象深いのではあるが。)。触れてこなかったが私たちが見学した時の来訪者の6~7割は外国人(中でもアメリカ人が多かったように思われる)であり、それらの人たちが展示を見て驚嘆する様子や、一通り見終わってぐったりした様子でベンチに座る風景は目に焼き付いている。その風景を見ると外国人の方々にとって原爆の凄惨さを理解してもらえたのではないか、負の歴史を知るいい機会になったのではないか、と未来に実現されるであろう平和に希望を見いだせた一方で、同時に自分の心の中に新たな引っ掛かりがあることに気が付いた。
 そのひっかかりというのは極端な話、「先ほど見出した希望はあくまで自分の虚像なのではないか」ということだ。これはあくまで一個人の視点でしかないが、この資料館では原爆がどれだけのものと人間をどす黒い苦悶の中に貶めたか、という一点のみを内包しているように思え、まあこれは観た者が原爆に対し一様の嫌悪感を覚えるのは確かである(それが原爆否定の根拠の一端となるのも確かであろう)。しかしながらこの場所にはもう一方の意見、すなわち原爆は存在すべきであるという意見が存在しないのは我々唯一の被爆国の国民である私たちがあらゆる人間にその是非を考えてもらう機会を生み出していくには少し勿体ないような気がするのである。
 ここでNHKが原爆投下60周年に当たる2005年に行った、原爆投下についての世論調査を見ていこう。質問は「アメリカが広島と長崎に原爆を落としたのは正しい判断だと思いますか、間違った判断だと思いますか」というもので結果は以下の通りである。

 本来様々な条件を考察しつつ論じる内容であろうが、簡単にこの資料からの要旨を読み取るに、国家間での世論は大きく違い、また日本は原爆投下に間違った判断であると結論を下していることがわかる。被爆国ということもあり、大多数が批判的な眼をもってこの問題に接しているのが日本人だと思うのだが、被爆者の平均年齢が80歳を超え、原爆投下が「”過去”の歴史」となりつつある今、その現状を知らない、よくわからないままニュース、世論を見て「悪いとされているから悪い」と考える人も少なからずいるのではないだろうか。
 また、アメリカの世論として原爆投下はアメリカ軍兵士の命を結果として多く救ったため、必要なものであったという意見が多いというのは有名な話であるが、資料を見るに日本よりも正しい、正しくない、の偏りが少ないのは事実である。
 この事実から僕が何を言いたいのかというと、やはり日本人と外国人の原爆に対する意識には少なからず齟齬があり、日本人の意識でさえも曖昧になりつつあるということである。そして前述した”平和への違和感”はそのような現状における広島そのものの在り方が人々の原爆に対する思いに最大限作用しているのかということでもあったと自分の中で理解した。この現状と疑問を踏まえて人々に問いを訴えかけるにおいて僕が一番有用だと思うのは、この場における対比意見の導入である。この現状では人々は原爆の凄惨さを押し付けられているだけで、確かにそれを理解しうる場にはなるものの自分の知を深めうる場にはならない(それだけで十分という意見もあるのかもしれないが)。しかしその物事を真反対から見た意見を知ることで考え方、物事の観方の違いを実感し、より原爆に対する自身の知恵が深まっていくことを促すスパイスとなるのが対にある意見だと思う。これにより、より多くの人間に原爆の在り方の是非を問うという当初の我々の目的が達成されうると思った、というのが僕の今回の旅行を通しての学びであり、考えたことである。


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