パートナー通信 No.42

『統一報告書・サマリー版』公開学習会・報告(つづき)

<09年12月~10年1・2月に行われた『サマリー版』公開学習会の報告のうち、紙面の関係でNo.41に載せられなかった『第3章の「つづき」』を掲載いたします。(編集部)>

【第Ⅰ部 総論】

第3章
 第3章は「子どもの人間としての尊厳と成長発達」の問題で、『サマリー版』の中核論文である。
「子どもの権利条約・第12条」の「意見表明権」が徹底的に論じられる。結論から先に言えば、「意見表明権は、“受容的・応答的な人間関係”を『つくる』権利として解釈し直される。

 第3章の理論構成は、

  1. 「受容的・応答的な人間関係」をつくる権利を子どもに保障する理由
  2. これまでの条約12条の理解には疑問がある
  3. 条約12条について新たな解釈の提案を、要するに、意見表明権は“受容的・応答的な人間関係をつくる権利”であるということ
  4. 条約のレーゾンデートル(存在理由、存在価値)が危ういので、それを再確認して、気を引き締めて運動しよう

 では、順を追って、もう少し詳しく;
 条約12条の意見表明権は、“受容的・応答的な人間関係”をつくる権利として解釈されなければならない。みなさん、ご承知のことである。
 条約は、子どもの「①尊厳」と「②生存」と「③成長発達」を保障するために存在するもの。この3つの確保が条約の目的だと主張する。そしてそれを実現する手段として「幸福」、「愛情」および「理解」のある環境の保障を大人に、政府に、国際社会に、つまりは条約に求めている

 そこでまず、この目的と手段の関係を考える;

  1. 子どもが自分の過去を振り返ってみて幸せに思えたとき、人としての尊厳を実感するのではないか。
  2. 子どもが家族の中にいる今、学校にいる今、友達と遊んでいる今、親や先生、ご近所のおばさん・おじさんから愛情あるまなざしで見守られているなら「生きていてよかった、これでいいのだ」と思うだろう。生存の実感は「今」しかない。
  3. どの子だって健やかに成長したい。しかし成長の成果は未来におとずれるものだ。それは子どもにとって希望となる。だからそれでどうしても不安がつきまとう。試行錯誤もでてくる。

だから大人の温かい心からの支援、その子の生き方への理解がほしい。それがあれば、未来に希望がもてる。子どもにとっても、過去、現在、未来という生命体固有の厳然たる命の営みがあるということだ。

 これらが保障されるためには、「受容的・応答的な人間関係」が子どもの日常に存在しなければならない。そこで、「受容的・応答的な人間関係」について論ぜられる。
 「受容的・応答的な人間関係」とは、子どもと大人の関係だが、それは大人の務めだが、子どももまた、そういう人間関係をつくれなくてはならない。「つくる」権利を子どもにきちんと保障しなくてはならない。その理由をみんなで確認しようと言うのがこの節の主旨である。
 だが、諸般の事情をみるに、日本の子どもは、「子ども期を喪失している」と言い切っていい。それをもたらしているのは「受容的・応答的な人間関係」の破壊である。少し控えめに言えばそれがゆがんでいるからだ。
 とすれば、それを回復しなくてはならない。どうやって回復するか。これが大きな問題。それを考える前に、次のことを振り返っておきたい。
 われわれの、これまでの、条約12条の理解は正しかったのかということ。反省する必要がありはしないか。また、権利条約そのものは、そのための具体的な権利保障をしているか。保障しているとすれば、どのように保障しているのか、示せ。大胆な問題提起である。
 条約12条の条文には、意見表明権は、「子どもが自由に自己の意見を表明する権利を保障し、それに対しておとながその子どもの年齢及び成熟に応じて適切に考慮する義務がある」と書いてある。
 しかし、これでは一定年齢以下の子どもを“小さなおとな”としてその権利行使主体と見なすことはできても、それ以下の子どもは依然として“未熟な”人間でしかないことになる。
 そこで、条約12条の新たな解釈を見つけなければならない。
 意見表明権を、「受容的・応答的な人間関係を『つくる』権利」と規定し直す必要があると思うがどうか。子どもはいつでも自由に「意見」を言えるだろう。だが彼らの話す言葉はまだ不充分。熟していない。だが「欲求」なら表明できる。お腹がすいたと叫べる。「痛い」と泣ける。本能として「表明」できる。そういう自然権(利)を有している。だから、おとなは、子どもがそれを表明できるように対応しなくてはならない。その応答は常に“肯定的・受容的なもの”でなければならない。そして子どももまた要求し続けなければならない。
 12条の意見表明権は、そのような力を子どもの基本権として社会的に承認されるものなのだ。そういうふうに解さなくてはならない。受容的な応答義務を大人は絶対的に負っているのだ。 

 国連子どもの権利委員会はこの提案をどう受けとめ、評価し、承認するだろうか、たぶん承認するだろう。私(高橋)は大いに期待している。

 条約のレーゾンデートル(存在理由、存在価値)を再確認しよう。
 われわれの中に誤解がある、条約12条の意見表明権と、13条以後の市民的権利をゴッチャにして理解していた向きがある。これは截然と区別されなければならないことなのだ。
 そうすることによってのみ、はじめて、子どものみならず、すべての人間が人間としての尊厳を保って生きられるのだ。

 新自由主義体制は人間の尊厳を踏みにじるもの。したがって人間の尊厳を踏みにじられるものは、これと闘わなくてはならない。だから子どもでも新自由主義と闘える。
 このように、その存在意義を確認し直せないものか。国連子どもの権利委員会(CRC)においても研究・討論して欲しいものである。

   私の要約はどこかに無理や誤りがあるかもしれない。みなさんの批判・意見に学びたい。よろしくお導きください。

(文責:高橋清一)


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