パートナー通信 No.43

「ぐんま子どもの人権宣言合唱団」の14年

元 ぐんま子どもの人権宣言合唱団  
事務局長 横 田 公 代

はじめに

 2010年6月5日、13年8ヶ月続いた、「ぐんま子どもの人権宣言合唱団」のファイナルコンサートが高崎市文化会館大ホールで行われた。合唱団の幕引きの時である。大人と子ども総勢102人の団員は、尊敬する大好きな団長であり指導者の長井学のピアノ伴奏で、合唱組曲「子どもの人権宣言」1996年改訂版10曲と、林光ソング8曲を心を込めて歌い上げた。このメンバーで、この合唱団の名前で歌うのは最後なのである。途中、何度も熱いものが込み上げてはきたが、歌い終わった時は不思議と清々しい気持ちに満たされていた。まっしぐらにかけぬけた14年間、本当に楽しかった。

変わらぬもの

 「子どもの人権宣言」を歌いたい!その思いひとつで合唱団は結成された。1996年10月のことである。それから2年の間に3回もコンサートを開き、"人権宣言"の歌を歌った。このことは作曲者を感激させると共に、全国にこの歌の存在を知らしめることにもなった。指導者の団長をはじめ、この歌に共感する団員が多く、初めの頃は、練習中、涙をこぼしながら歌う姿がよく見られた。
 メッセージを伝える――その意識がはっきりと固まっていった。その後、合唱組曲「とべないホタル」、合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」、合唱劇「カネト」、合唱組曲「母さんの樹」、合唱劇「ピカドンたけやぶ」などの大作や「原爆小景」を初めとする数々の作品を歌った。
 これらを通して、子どもたちの明るい豊かな未来を実現するために、平和、人間の生き方、人権など、さまざまな想いをメッセージとして歌い伝えてきた。それを、今を生きる大人と子どもで歌う、ということにこだわってきた。団長の長井学の表現したいことが、団員の願いや想いを揺れ動かし、響き合って、誇りをもって歌う心を育ててきたと思っている。そのことは初めから終わりまで変わらないことであった。

変わってきたもの

 14年の年月を長かった、と思うことはない。むしろあっという間だったように思う。練習は毎土曜日。公民館の休館日や都合で使えない日以外は殆んどやってきた。少ない時で70人、多い時では150人からの団員が参加してくれた。"土曜の夜は合唱。"それが団員の生活リズムの1つになっていたと言っても過言ではないほどよく集まっていた。
 東京で、日本うたごえ祭典の合唱発表会(コンクール形式)が行われた時は、大人と子ども80人で参加。親子の部1位となり、合唱団は全国版になった。名古屋で「ぞうれっしゃがやってきた」の大きなイベントがあった時も60人で参加。合唱団の子どもたちは信頼できる!という確信をもてるようになった。たった6分30秒のステージに乗るために、静岡まで、往復10時間もかけてバス1台で参加したこともあった。合唱団に寄せる団員の意識はとても高く、大きな、大きなファミリーだと心底思える幸せな時期が続いた。歌の想いは変わらない。伝えたいメッセージも変わらない。しかし、少しずつ変わってしまうものがあった。
 ここ何年か前から、合唱団が参加するイベントへの団員の参加率が減少してきたのだ。合唱団よりも個人の都合(部活、塾、遊びetc.)が優先されるようになってきた。経済的な事情や、仕事のシフトの都合から練習を休まざるを得ない人も増えてきたのだ。合唱だから、欠席者が多かったり、入れ替わりで休まれると、音楽作りにも支障が出てくる。コンサート直前になっても、全員がなかなか揃うことがなくなってきた。また、親子で良い時間を共有してほしいという願いとは裏腹に、子どもだけの参加も年々増えてきてしまった。  昨年、最も残念に思うことがあった。それは・・・
 毎年夏に開催地を変えて、「教育のうたごえ祭典」というものが開かれている。昨年は広島であった。私は、子どもたちを広島に連れて行きたかった。広島で何があったかを体感して欲しかった。1年前から、練習の時々に、「お金を貯めて広島に行こう。親子でダメなら子どもだけでも連れて行くよ」と呼びかけてきた。広島を歌った歌もたくさん歌ってきたし、大人の意識はある、と思っていた。しかし、見事にはずれた。親子での参加はたった1組。子どもの参加はゼロだった。力がぬけていくのを感じた。事務局の誘い方がいけなかったのか、それとも経済的負担が大きかったのか、子どもが忙しいのか。
 ・・・理由はわからない。しかし、合唱団の結成当時から大事に思ってきた大きなファミリーのつながりが希薄になっていくのを改めて感じでさびしかった。私が合唱団を閉じようと考えた要因の1つであった。

合唱団の子どもたち

 子どもは、いつも元気だ。元気すぎて練習中、周りの大人たちからお目玉をもらう子もよくいた。しかし、大人は「まったくぅ!」と言いながらも、お行儀の悪い子を受け入れながら、子どもたちのエネルギッシュな歌声から、いつもパワーをもらって、うれしがっていた。子どもたちもまた、「ストレス解消!」と言いながら大声で歌う。子どもたちのこのパワフルな歌声こそが、人権宣言合唱団の宝物だといつも思っていた。団長のピアノは、子どもの歌声を引き出す魔法の音を出す。子どもは、その魔法にまんまと乗せられて、うまくなっていくのだ。  私は、クラスの中でちょっと目につくヤンチャ坊主をよく誘って連れていった。団長はそんな私に、「ここは更正施設じゃないよ」と言った。でも、特にそういう子には心を配って接してくれているのがよくわかった。1年もすると合唱団ではフツーの子になっている。きちんと叱ってくれたり、ほめてくれたり、当たり前の付き合いをしてくれる大人や、点数で競わされない安心感の中で、子どもは居場所を得るのだ。

 歌は心を開放すると私は思っている。長井学の指導やピアノはその力がとても大きいと思う。だから子どもが歌う。子どもが変わるのだと思う。また良い作品には、歌うことで心が育つ力があるのだということもわかった。
 「子どもの人権宣言」を歌った子どもたちから、時々うれしい便りが直接、間接的に届く。コンサートの中で、将来の夢を語った子がいた。1人は菓子職人になりたい、と言った。1人は科学者になって有名になりたい、と言った。菓子職人の道を選び、進学し、見事にケーキ屋さんに就職した子。理工学部に進学し、科学者の道に近づいていった子。小さい時の夢を語ったキラキラした瞳が今も目に浮かぶ。また、歌ったことがベースになって、大学で権利条約を学び、子どもの権利向上のために活動していた若者。そして、役を演じたことがきっかけとなり、役者の道に進んだ者もいる。「私は今、福祉の道に進もうと勉強しています。この道を選んだのは、子どもの頃歌った人権宣言の影響が大きいと思います。」という手紙は、ファイナルコンサートの直前にもらったものである。
 団長とよく話していたのは、『今やっていることは種まきだね。今に、この子たちが大きくなった時、こんなすごい歌を歌っていたんだね、と思い、考えてくれたら、それでいいよね』ということだった。花が咲き、実を結び、動き始める者がいる、その数はわずかでも、それがつながっていったらうれしいことである。

おわりに

 たくさんの喜びをくれた子どもたちに、一緒に歌った団員たちに、そして充実した14年間をプレゼントしてくれた団長に、心から「ありがとう」を言いたい。たかが歌、されど歌。歌はほんとうにいいものだ、と今しみじみ思っている。


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