パートナー通信 No.60
- 1. 2015年1月/No.60(通算76号)
- 2. 子どもの権利条約批准20周年と子どもの権利 代表 大浦暁生
- 3. 「合同記念集会」2日目の報告から 加藤彰男
- 4. 『パートナー通信』60号 &
子どもの権利条約批准20周年記念特集 ①
私と「子どもの権利条約」 - 5. 「あなた方は、今、変革の実践の中にいる」 河嵜清松
- 6. 『パートナー通信』60号
おめでとうございます 淡路明子 - 7. 「ひだまりマルシェと世話人会」今村井子
- 8. 孫や娘の成長と共に 渡辺百合子
- 9. 『子どものけんりカルタ』 原画作者・次百(つぐも)さん
- 10. 会員を増やしてゆきましょう 藤井幸一
- 11. 6年生と「子どもの権利条約」を学び、
その精神を刻んだ卒業制作 関口信子 - 12. 子どもの権利条約が、
私たち群馬の日常になるまで 石橋峯生 - 13. 全国保育所給食セミナーin群馬が開催されました! はと保育園 園長 平石美奈
子どもの権利条約批准20周年記念特集 ①
「60号&20周年」を記念して、寄稿をお願いしました。これまでの活動をふりかえり、また、今を考えながら、私たちの活動の未来を展望してゆきたいと思います。
子どもの権利条約が、
私たち群馬の日常になるまで 石橋峯生
今から25年位前―子どもの権利条約、批准の闘いをすすめていた頃―。群馬の民主教育運動は、保育園、小中学校、高等学校、大学が合同で、県民を入れた「群馬県民教育研究集会」を組織し、「未来に生きる子どもたちのための教育」へ向かう時だった。
その時の特別分科会
1 登校拒否・不登校の分科会
たくさんの登校拒否・不登校を考える親の会に発展し、子どもたちの居場所づくりに向かった。この子どもたちと親たちは、日本の民主教育闘争の最前線で生きた。
あかぎしぜん学園今生塾は、その一つである。
2 子どもの権利条約の分科会は、批准闘争を経て「群馬子どもの権利委員会」に発展した。
一方、「共同保育所」建設運動の中で誕生した「熊の子」保育園。―そこでの子育ての実践が『だめな子はいない』にまとまる。その子どもたちを迎えて育てる学校が求められ、「あかぎしぜん学園」の建設が呼びかけられた。
① 群馬の民主教育運動と、
② 共同保育所の建設の仕事と、
③ それに続くあかぎしぜん学園建設の仕事と
④ 群馬子どもの権利条約の仕事が
一つに繋がる。
忘れられない大事な事、いくつか
1 8年位前、子どもの権利条約12条(子どもの意見表明権)の考えが深められた。
意見表明権は、意見を表明する権利ではく、子どもの願いや思いを表現する権利と、それを受け止める大人の義務。と深められた時、―それなら、私たちは毎日やっている―と共同保育所の保育士たち。―それで保育園の子どもたちと「子どもの権利カルタ」作りがはじまった。
楽しい仕事だった。
たくさんの保育園ではじまったこの仕事は、群馬子どもの権利委員会・総会の第2部を創る。
それから、群馬「保育の集い」へ発展する。代表の大浦さんが「集い」の実行委員長を務めた。
国連子どもの権利委員会に、3人の保育士が群馬の子どもの状況を報告した。
2 飯塚さんの「引き出す」ことと「受け止める」こと―は「子どもの権利条約」そのもの
飯塚さんは言います。―私は、32年間教育に携わってきました。しかし10年ほど前まで、ずっと―どんなことを子どもに選ばせて書かせればよいか、書く必要のないものはなにか、書く価値のないものはなにかも含めて指導するのが教師の仕事だと思っていました。
だから、書き直しや書き足しも必要になることもあり、題材や内容に私が直接関わることもありました。つまり「引き出す」ということです。―でも、この働きかけは、子どもたち一人ひとりがそれぞれの色を持っていたとしたら、そんな子どもたちの色を私の色に染め変えていく行為ではないだろうかと思うようになったのです。
しかし、私がよいと思い込んでいるものとは対極にあるものからでも子どもたちは育っていくことに、気づき始めたのです。―「子どもたち一人ひとりの違う色」が、より鮮明になっていくことが「私の色」でありたいと願うようになりました。―それは、「引き出す」ということでなく、より深く「受け止める」ということでした。―「引き出す」は、教師に向かって子どもを近づけること。「受け止める」は、子どもに向かって教師が近づいていくこととも言えます―と。
2010年総会第2部、飯塚さんの作文教室にたくさんの子どもと親が集まり作文を読んだり書いたりした。それ(作文教室)は地域で広く、今も続き、「えがおの花」になる。そこには、生き活きした子どもたちが居て、共に生きる親たちがいた。
3 足利の子どもたちが作った(創造した)「子どものわいわいフェスタ」(お祭り)―それは、子どもの権利条約の世界そのもののように見えた。
子どもたちが歌い、踊り、語るステージ。
たくさんの学童保育所の子どもたちが作ったお店、遊ぶ場所、作る所。それを助ける親たち。食べ物を売る店もいっぱいあった。
そこで働くたくさんの子どもたち。そこで使われるお金も銀行も、みんな子どもたちが考えて、作ったのだと言う。―群馬子どもの権利委員会では考えられない事だった。―ところが、群馬の玉村で発展することになった。これは大事にしたい。
4 放射能から子どもを守るたたかい
2011年3月
東京電力福島第1原子力発電所「事故」
事故で飛散した放射能は全ての生きものに襲いかかった。
子どもたちと保育士たちの放射能とのたたかいは、一時も休みなく続いた。
この「放射能から子どもを守る」たたかいは、たくさんの共同保育園から、地域の運動に発展した。行政まで動かす運動に発展した。その一つが、安中の「ひだまりマルシェ」の運動。群馬子どもの権利委員会の新しい仕事です。
子どもの権利条約と私の今、2015年の初仕事
年賀状1
あかぎしぜん学園は、2002年、学校法人の学校建設を断念し、2015年は、「青空教室」だけで、新しい春を迎えます。
一方、学校建設は、たくさんの協力者によって、建設用地と今生館(5k×10kのプレハブ)が確保されました。
建設用地には、記念碑を!
今生館は記念館に!
と仕事をすすめます。
年賀状2
2014年の青空教室は 4月に山小屋で、カレーを作って食べました。5月には、戸神山に紫水晶を採りに行きました。6月に準備して、会員を募集して、7月、谷川岳ブナの原生林を、8月には榛名山雄岳、雌岳、爆裂火口を歩き、9月にはホームグランドの赤城山鍋割山へ。
10月、OBが呼びかけて、山小屋で合宿をしました。その時話し合って、合同で青空教室をすることを決めました。11月と12月は、合同で「もの作り」と「餅つき」をしました。
2014年は、新しい青空教室の模索の年でした。
2015年は、その新しい発展をめざします。 人間が人間であるために、全ての命の共生を!
「自然の中に溶け込んで生きる。」
そんな「時」と「所」を、一人でも多くの子どもたちと、おとなたちにつくります。
年賀状3
新年にあたり「共同保育所」建設の今(現在)を一緒に考えたいと思います。
私が「共同保育所」を一番感じるのは、運動会と、卒園式と卒園文集を読む時です。
いつも生き活きと輝いて生きる子どもたちが真中にいて、保育士がいて、親たちが居た。その中に私も居て、私にとって至福の時。
この子どもたちの生きる未来を考えましょう。
平和で武器のない世界を!
みんな働く仕事があって、貧しさのない社会を!
そして、「はと」の卒園児が、生涯輝きつづけられるように!
全ての人が、社会の主人公になれるように!
年賀状4
「ぐんまの教育」も新しい春を迎えます。
「ぐんまの教育」74号を御覧下さい。
保育園の子どもたちと保育士たちが、すっかり主人公になっています、生き活きと、輝いて生きています。
この子どもたちの生きる未来へ向かいます。
平和で戦争のない国
すべての国が武器をもたない世界
貧しい者のない国へ
それは、私たち大人の生きる目的(責任)です。